☆★☆★「奮起師」松田剛幸 列伝!!・・教育者!松田先輩を偲んで・・☆★☆★



編集者より
15代 松田剛幸先輩が令和7年2月18日にご逝去されました。
編集者(福家)は、東京都の高校で体育教師をしておりますが、体育人として、教師として目標としていた人が松田先輩でありました。亡くなる直前にもお電話で話をさせていただきましたが、あとからご遺族に聞いたところでは、ちょうどご自身の病気の告知された時であったにもかかわらず、私のことを励ましていただける言葉をいただけました。昨年末の関東選抜大会でお会いした際も、いつもの強く逞しく、そして細かな気遣いをされる先輩であり、微塵も体調の悪さを見せませんでした。病状も急変したとのことでしたが、周りに心配をかけないように、最後まで気配りの先輩でありました。
お通夜、告別式では、松田先生に育てられた教え子や、その生き方に感銘を受けた方々が多く訪れ、別れを惜しんでいました。
編集者の独断ではありますが、息子の大毅に、松田先輩のことを特集を組みたいと話したところ、是非お願いしますと快諾をもらいましたので、松田先輩の人生のごく一部ではありますが、ご紹介させていただきます。


松田先輩を偲んで記事を書いていただくのは、この方しかいないと思い、無理を言って寄稿していただきました。第2代 OB会長でもある 第8代 土屋義晴 先輩です。
『第15代主将 松田剛幸を偲んで 第8代主将 土屋義晴
2025年3月25日の誕生日(67歳)を目前に入院し、胃癌からリンパ等に転移しており治療が難しく1ヶ月ほどで2月18日に逝去され、人生の幕を閉じてしまった第15代主将松田剛幸を偲んで、50年の永きにわたり共に歩んできた多くの思い出の中から幾つか書かせていただきます。
私は、1973年4月に日本体育大学を卒業して、体育の授業の中に少林寺拳法を取り入れたいという少林寺拳法連盟本部の依頼を受け、香川県私立藤井高等学校に体育教師として1年半を勤務し、その後金剛禅総本山少林寺(少林寺拳法連盟本部)で半年間勤務し東京に帰ってきました。
松田剛幸と会ったのは、ちょうどその頃でした。私の母校である柏日体高等学校(現在の日本体育大学柏高等学校)に当時は少林寺拳法部があり、その時に主将をしていたのが松田剛幸でした。何度か一緒に練習に参加させてもらい技術的にも人間的にも気に入り、当時の部長である山田良樹教授にお願いし、日本体育大学少林寺拳法部への入部が決まり大学生活が始まったのを覚えています。入学してから部の練習を頑張っているのか心配で、何度か練習に顔を出すたび怪我をして休んでいることが多く、1年生の時は先輩たちに心配をかけていたのを思い出します。それでも厳しい練習に耐え、厳しい先輩方の指導に耐え、理不尽なことが多かったと思うが、それも思い出になったと思います。当時の先輩に柏日体高校出身で第12代豊田幹雄や第13代の竹田享が親身になって面倒を見てくれたお陰で4年生の時には日本体育大学少林寺拳法部としては初の全日本学生大会での最優秀賞獲得を成し遂げてくれました。私の結婚式には演武を披露してくれたり、長男(裕嗣)が誕生したときには練習の合間を抜って出産祝いを届けに来てくれたのを思い出します。
私はその当時、渋谷の東急ハンズで伝統工芸品の店長をしており、松田がよく遊びに来てくれました。松田が4年生の時、創部15周年記念式典を駒沢にある三越迎賓館にてOBを含めた式典を大々的に開催したいと相談があり、OB会を結成しなければと決意し、松田剛幸主将を中心に第12代豊田幹雄(旧姓島根)の協力を得てOB会を立ち上げました。初代OB会長に第5代主将の中根宏先輩に無理を言ってお願いしスタートすることができました。記念品は店で扱っていた扇子等を仕入れ価格で準備したのを記憶しています。OB会は松田の声掛けにより現在に至っていることはいつまでも語り継がれてほしいと願っています。
松田は卒業後、学校教育教材を東京都内の各小中学校に納品する仕事に従事しており、私も勤務地を文京区湯島に異動していたので、よく訪ねて来てくれ、いつも現況報告をしてくれました。
松田30歳の時、平成元年より高校生に少林寺拳法(拳禅一如・力愛不二)を通して人生を生き抜く自信と力を身につけた若者を一人でも多く育てたい、そして社会で役立つ人間を育てたいという金剛学園創立者、故石井敬一先生との出会いにより現在の桜林高等学校(当時は金剛学園高等専修学校)に勤務が決まり、寝る間も惜しんで生徒のために頑張っていたのを私の勤務先まで報告に来てくれました。生徒数も増え、開校から3年目で定員以上の生徒を確保出来ましたが、少林寺拳法を正課として指導するための体育の教員、特に少林寺拳法経験者が必要とのことで私を誘いに来てくれました。私も同じ教育感を持っていることに感銘を受け、今まで眠っていた闘志に火がついたように引きつけられ、私は平成3年4月40歳の時より採用していただき勤務させて頂きました。それからは松田と2人3脚でいつも一緒に生徒の指導を中心に朝は7時から夜は11時頃まで無我夢中で勤務しておりました。当時は地域の先生方からはセブンイレブンとよく言われたものです。睡眠時間が1時間ぐらいの時も多々ありました。
当時の生徒は、中学校での問題児(暴力的・勉強嫌い・不登校等)が多く、高校にも入学できない生徒が多く、受け入れて社会で生きていけるように指導するという大変な学校でした。松田剛幸を中心に他の教科を受け持つ教師も含めて大学での少林拳法経験者が7名ほどいたおかげで先生方の方が生徒達よりも自信と行動力があり、団結力もあったので学校内よりも学校外での問題行動が多く、シンナーやたばこ、暴走族や暴力事件など数え切れないほどの指導に当たっていたのを思い出します。警察に謝罪に行くことも多々ありました。その生徒達が立ち直り前を向いて社会で頑張っている姿を見ると教育のやりがいを感じ頑張ることが出来ました。指導の根底にはいつも「力の伴わざる正義は無力なり、正義の伴わざる力は暴力なり」があり、暴力を振るうやつには相手を思いやる優しさを、弱い生徒には自信と勇気と行動力を身につけさせることが大切と、生徒の可能性を信じて指導し、生徒は今の自分を変えたいとの気持ちを大切に指導していました。特に生徒達には親への感謝だけは忘れず指導していたのを覚えています。
私が教務部長の時には松田が生徒指導部長、私が校長の時には松田が教頭と本当にいつも2人3脚で相談相手となり、共に生徒の可能性を信じて生徒のための指導を心掛けて教師生活を過ごしていたのを思い出します。
2003年平成15年4月から3年間の一般企業での就業を終え第35代主将の土屋裕嗣が採用され、松田剛幸に指導を受けながら共に現在の桜林高等学校を文武両道の学校として立派に育て上げてくれています。私が10年前に退職してからは、松田は副校長として、そして晩年は顧問として学校の重責を担い教職員や生徒の指導に当たってくれていました。現在第55代上原茉奈も加わり松田の意思を受け継いで指導に当たってくれています。
病魔には勝てず人生の幕を下ろしてしまったのは残念である。見舞いにも行きたかったが家族以外は面会が許されず、最後によく頑張ったと話をしたかった。永きに亘り親子共々世話になり感謝しかありません。松田剛幸のさまざまな貢献は学校も生徒も保護者も忘れないであろう。家族のことは心配せずに安らかに眠ってください。心よりご冥福をお祈り致します。』
土屋先輩ありがとうございました。



















編集後記
松田先輩はつねづね「奮起師」でありたい!と話をされていました。
それは、生徒の心に火を点けて、奮起をさせるという意味です。
まさにそれを体現させて、桜林高校は、インターハイ・全国選抜大会、団体優勝、個人優勝をはじめ、輝かしい成績を残し、多くの少林寺拳法指導者を輩出しています。まさに高校連盟を牽引する高校に創りあげられました。
桜林高校のOB・OGと話をすると、必ず松田先生の話が出ます。教え子たちにとってはまさに「恩師」と呼ばれる存在であったようです。
私自身、目標を失い茫然自失の状況が続いておりますが、残された私たちがやれること、やるべきことが必ずあると思います。若い拳士たち、若い世代のひとたちに希望を与えられるような「奮起師」に、私もなりたい!と改めて思いました。
松田剛幸先輩、安らかにお眠りください。
高いところから、初代監督の大屋昭夫先生とともに、私たちを見守ってください。
わたくたちも先生方に叱れないように頑張ります。
合掌



編集者より
15代 松田剛幸先輩が令和7年2月18日にご逝去されました。
編集者(福家)は、東京都の高校で体育教師をしておりますが、体育人として、教師として目標としていた人が松田先輩でありました。亡くなる直前にもお電話で話をさせていただきましたが、あとからご遺族に聞いたところでは、ちょうどご自身の病気の告知された時であったにもかかわらず、私のことを励ましていただける言葉をいただけました。昨年末の関東選抜大会でお会いした際も、いつもの強く逞しく、そして細かな気遣いをされる先輩であり、微塵も体調の悪さを見せませんでした。病状も急変したとのことでしたが、周りに心配をかけないように、最後まで気配りの先輩でありました。
お通夜、告別式では、松田先生に育てられた教え子や、その生き方に感銘を受けた方々が多く訪れ、別れを惜しんでいました。
編集者の独断ではありますが、息子の大毅に、松田先輩のことを特集を組みたいと話したところ、是非お願いしますと快諾をもらいましたので、松田先輩の人生のごく一部ではありますが、ご紹介させていただきます。


松田先輩を偲んで記事を書いていただくのは、この方しかいないと思い、無理を言って寄稿していただきました。第2代 OB会長でもある 第8代 土屋義晴 先輩です。
『第15代主将 松田剛幸を偲んで 第8代主将 土屋義晴
2025年3月25日の誕生日(67歳)を目前に入院し、胃癌からリンパ等に転移しており治療が難しく1ヶ月ほどで2月18日に逝去され、人生の幕を閉じてしまった第15代主将松田剛幸を偲んで、50年の永きにわたり共に歩んできた多くの思い出の中から幾つか書かせていただきます。
私は、1973年4月に日本体育大学を卒業して、体育の授業の中に少林寺拳法を取り入れたいという少林寺拳法連盟本部の依頼を受け、香川県私立藤井高等学校に体育教師として1年半を勤務し、その後金剛禅総本山少林寺(少林寺拳法連盟本部)で半年間勤務し東京に帰ってきました。
松田剛幸と会ったのは、ちょうどその頃でした。私の母校である柏日体高等学校(現在の日本体育大学柏高等学校)に当時は少林寺拳法部があり、その時に主将をしていたのが松田剛幸でした。何度か一緒に練習に参加させてもらい技術的にも人間的にも気に入り、当時の部長である山田良樹教授にお願いし、日本体育大学少林寺拳法部への入部が決まり大学生活が始まったのを覚えています。入学してから部の練習を頑張っているのか心配で、何度か練習に顔を出すたび怪我をして休んでいることが多く、1年生の時は先輩たちに心配をかけていたのを思い出します。それでも厳しい練習に耐え、厳しい先輩方の指導に耐え、理不尽なことが多かったと思うが、それも思い出になったと思います。当時の先輩に柏日体高校出身で第12代豊田幹雄や第13代の竹田享が親身になって面倒を見てくれたお陰で4年生の時には日本体育大学少林寺拳法部としては初の全日本学生大会での最優秀賞獲得を成し遂げてくれました。私の結婚式には演武を披露してくれたり、長男(裕嗣)が誕生したときには練習の合間を抜って出産祝いを届けに来てくれたのを思い出します。
私はその当時、渋谷の東急ハンズで伝統工芸品の店長をしており、松田がよく遊びに来てくれました。松田が4年生の時、創部15周年記念式典を駒沢にある三越迎賓館にてOBを含めた式典を大々的に開催したいと相談があり、OB会を結成しなければと決意し、松田剛幸主将を中心に第12代豊田幹雄(旧姓島根)の協力を得てOB会を立ち上げました。初代OB会長に第5代主将の中根宏先輩に無理を言ってお願いしスタートすることができました。記念品は店で扱っていた扇子等を仕入れ価格で準備したのを記憶しています。OB会は松田の声掛けにより現在に至っていることはいつまでも語り継がれてほしいと願っています。
松田は卒業後、学校教育教材を東京都内の各小中学校に納品する仕事に従事しており、私も勤務地を文京区湯島に異動していたので、よく訪ねて来てくれ、いつも現況報告をしてくれました。
松田30歳の時、平成元年より高校生に少林寺拳法(拳禅一如・力愛不二)を通して人生を生き抜く自信と力を身につけた若者を一人でも多く育てたい、そして社会で役立つ人間を育てたいという金剛学園創立者、故石井敬一先生との出会いにより現在の桜林高等学校(当時は金剛学園高等専修学校)に勤務が決まり、寝る間も惜しんで生徒のために頑張っていたのを私の勤務先まで報告に来てくれました。生徒数も増え、開校から3年目で定員以上の生徒を確保出来ましたが、少林寺拳法を正課として指導するための体育の教員、特に少林寺拳法経験者が必要とのことで私を誘いに来てくれました。私も同じ教育感を持っていることに感銘を受け、今まで眠っていた闘志に火がついたように引きつけられ、私は平成3年4月40歳の時より採用していただき勤務させて頂きました。それからは松田と2人3脚でいつも一緒に生徒の指導を中心に朝は7時から夜は11時頃まで無我夢中で勤務しておりました。当時は地域の先生方からはセブンイレブンとよく言われたものです。睡眠時間が1時間ぐらいの時も多々ありました。
当時の生徒は、中学校での問題児(暴力的・勉強嫌い・不登校等)が多く、高校にも入学できない生徒が多く、受け入れて社会で生きていけるように指導するという大変な学校でした。松田剛幸を中心に他の教科を受け持つ教師も含めて大学での少林拳法経験者が7名ほどいたおかげで先生方の方が生徒達よりも自信と行動力があり、団結力もあったので学校内よりも学校外での問題行動が多く、シンナーやたばこ、暴走族や暴力事件など数え切れないほどの指導に当たっていたのを思い出します。警察に謝罪に行くことも多々ありました。その生徒達が立ち直り前を向いて社会で頑張っている姿を見ると教育のやりがいを感じ頑張ることが出来ました。指導の根底にはいつも「力の伴わざる正義は無力なり、正義の伴わざる力は暴力なり」があり、暴力を振るうやつには相手を思いやる優しさを、弱い生徒には自信と勇気と行動力を身につけさせることが大切と、生徒の可能性を信じて指導し、生徒は今の自分を変えたいとの気持ちを大切に指導していました。特に生徒達には親への感謝だけは忘れず指導していたのを覚えています。
私が教務部長の時には松田が生徒指導部長、私が校長の時には松田が教頭と本当にいつも2人3脚で相談相手となり、共に生徒の可能性を信じて生徒のための指導を心掛けて教師生活を過ごしていたのを思い出します。
2003年平成15年4月から3年間の一般企業での就業を終え第35代主将の土屋裕嗣が採用され、松田剛幸に指導を受けながら共に現在の桜林高等学校を文武両道の学校として立派に育て上げてくれています。私が10年前に退職してからは、松田は副校長として、そして晩年は顧問として学校の重責を担い教職員や生徒の指導に当たってくれていました。現在第55代上原茉奈も加わり松田の意思を受け継いで指導に当たってくれています。
病魔には勝てず人生の幕を下ろしてしまったのは残念である。見舞いにも行きたかったが家族以外は面会が許されず、最後によく頑張ったと話をしたかった。永きに亘り親子共々世話になり感謝しかありません。松田剛幸のさまざまな貢献は学校も生徒も保護者も忘れないであろう。家族のことは心配せずに安らかに眠ってください。心よりご冥福をお祈り致します。』
土屋先輩ありがとうございました。



















編集後記
松田先輩はつねづね「奮起師」でありたい!と話をされていました。
それは、生徒の心に火を点けて、奮起をさせるという意味です。
まさにそれを体現させて、桜林高校は、インターハイ・全国選抜大会、団体優勝、個人優勝をはじめ、輝かしい成績を残し、多くの少林寺拳法指導者を輩出しています。まさに高校連盟を牽引する高校に創りあげられました。
桜林高校のOB・OGと話をすると、必ず松田先生の話が出ます。教え子たちにとってはまさに「恩師」と呼ばれる存在であったようです。
私自身、目標を失い茫然自失の状況が続いておりますが、残された私たちがやれること、やるべきことが必ずあると思います。若い拳士たち、若い世代のひとたちに希望を与えられるような「奮起師」に、私もなりたい!と改めて思いました。
松田剛幸先輩、安らかにお眠りください。
高いところから、初代監督の大屋昭夫先生とともに、私たちを見守ってください。
わたくたちも先生方に叱れないように頑張ります。
合掌