☆★☆★快挙!41代田島佳代子(リングネーム田嶋はる)世界王者への道!☆★☆★
編集者より
前回のブログでお伝えしましたが、わが少林寺拳法部のOGである41代 田島佳代子が(22代目線です・・)なんと女子キックボクシングの世界王者となりました
卒業生は様々な分野で、日体大少林寺拳法部の看板を背負いながら活躍をしております。その中で、卒業後も少林寺拳法や、そのほかの格闘技を続けているメンバーもいます。そんな中で、41代田島はキックボクシングを初め、ケガで一回引退してから見事復帰し、世界王者まで登り詰めました。
実は、私は彼女が日体大に入学前から知っていました。その当時の勤務校の教え子が、体育進学センターに通っており、そこで同じように日体大を目指す田島を、高校の体育教官室に連れてきました。「格闘技に興味があり、少林寺拳法部に入部したい!」というような話をしたことを覚えています。見事に入学、入部し、後輩となったわけですが、印象としては、「線が細い子」でした。しかし、あとで学生時代を語ってくれる芝崎(旧姓)も言っていますが、芯の強さは感じさせる後輩でありました!卒業して20年、世界王者までの道のりは決して平坦ではなかったと推察します。OB会の代表として言わせてください。「本当によく頑張ったな!おめでとう!」
同期の41代芝崎(旧姓)は、入学前からの親友で、大学時代もルームシェアした仲でもあります。彼女の大学時代の話を織り交ぜながら「世界王者への道!」を特集してみました!・・では
まずは・・田島本人から 日体大少林寺拳法部時代を語ってもらいます
私が少林寺拳法に興味を持ったのは、1冊の本がきっかけでした。
灰谷健次郎さんの『天の瞳』という本です。この主人公の男の子が少林寺拳法をやっていて、人として大きく成長していく様にとても心惹かれました。
中学生の時にこの本を読み、高校は(少林寺拳法に近いと思っていた…)空手部に入部をしようと思っていましたが、父親の反対があり、空手部への入部は断念しました。
そして、日本体育大学に進学し、是が非でも入部したいと思い、女の子は女の子らしく!!という父親には入部後、事後報告をし、何とか納得してもらいました。
体育大学の武道の部活という事もあり、心身共にキツイ事もありましたが、人としてとても大きく成長できた4年間だと思います。4年間仲間と共に部活に励み、最優秀という輝かしい名誉も手にする事ができました。諦めない事の大切さ、やり遂げることの達成感を大学時代に多く学んだと思います。
次に同期であり大親友でもある芝崎(旧姓)にいろいろなエピソードも含めて語ってもらいましょう
田嶋はること田島佳代子との出会いは、体育進学センター(タイシン)という渋谷区代々木にある体育系大学専門予備校の授業でした。当時、日本体育大学の一般入試を間近に控えた私たちは、入試で必要となるバスケットボールやマット運動の練習をしていました。私も田島もバスケットボール経験者ということで仲良くなるのに時間はかかりませんでした。日本人離れした顔立ちに、可愛らしいえくぼが印象的な女子高生でした。入試まで互いに技術を高め合い、学業にも励み、晴れて日体大生となれました。田島は大学から自宅がとても遠く、一人暮らしを希望していましたが、ご両親が大変心配され、大学の寮に住むよう言われていました。しかし田島は自由が効かないとそれを断固拒否。その流れで私とルームシェアをする事になりました。その頃には田島の誘いもあって、二人で少林寺拳法部に入部も決めていましたので、大学の近くにアパートを借り新たな生活をスタートしました。
田島は高校時代から格闘技に憧れていましたので、大学で少林寺拳法を始められることをとても楽しみにしていました。入学前の部活見学の際、先輩方のしなやかでキレのある突きや蹴り、受け身を見て「早く上手くなりたい」と話していました。また入部後は週6日の練習の他に1年生としての仕事と学業もあり、大変な事も多かったのですが、私も田島も突き蹴りの時に聞こえる道着のパン!という音がとても好きで、自宅に帰ってもまた道着を着て鏡の前で練習していたのを思い出します。
田島は在学中、様々な大会に出場し賞を取り続けました。
【一年次】全日本学生大会女子級拳士の部田島・芝崎組最優秀賞
【二年次】関東学生大会女子初段の部田島・竹田組優秀賞
全日本学生大会女子初段の部田島・竹田組最優秀賞
【三年次】関東学生大会女子二段の部田島・芝崎組優秀賞
【四年次】関東学生大会女子三段以上の部田島・芝崎組最優秀賞
全国大会(福井)女子三段以上の部田島・芝崎組敢闘賞
全日本学生大会女子三段以上の部田島・芝崎組最優秀賞
全日本学生大会女子団体の部最優秀賞
田島の武器は、高い身体能力と突き刺さるような蹴りでした。受けた事のある方なら分かると思いますが、彼女の蹴りは決して重くはありません。細い棒で突き刺してくるような後引く痛みがあります。練習中少しでも油断をすると、彼女は急所を一発で仕留めてきます。その動きは今でも変わっていないというか、更に増している気がします。
表彰の際、故 大屋昭夫先生(監督)より最優秀賞を授与される
田島とは一度だけ喧嘩をしたことがあります。それは引退を控えた大会の一週間前でした。1ヶ月間集中練習を重ねてきたにも関わらず、全く息が合わず、間合が上手く取れませんでした。互いにイライラを抑えているのは分かっていましたが、4年間でこんな状況に陥ったのは初めてで二人とも暗中模索していました。先に匙を投げたのは田島でした。「もう練習辞めよ。これ以上やっても優勝なんて無理だよ。」初めて田島の怒った顔を見ました。「なんでそんな事を言うの!そんな気持ちならもういい!大会出るのも辞めよ!」私もムカついて反論し、練習場を飛び出し帰りました。もちろん二人が帰宅する家は一つですから、まっすぐ家に帰れるわけもなく、私は帰路の途中の道で、田島は部室(ぶしつ)で泣きました。たぶんお互いに悔しくて泣いたんだと思います。優勝や出場を本気で諦めたわけではなく、どうして良いのか分からなくてこのようになりました。絶対リベンジしたい相手がいて、みんなの期待に応えたくて、でも練習が上手くいかなくて…歯痒くて…泣きました。その日は互いに同輩に助けられ、別々なところに泊まり、一晩気持ちを整理しました。次の日の朝、自宅で再開しました。「絶対勝とうね!」と抱き合った事は今でも忘れません。その日の練習から、間も息もピタッ!と合いました。引退試合の得点は断トツTOPでの最優秀賞だったと審判の方に教えて頂きました。「勝ちに拘る執念」は、田島のもう一つの強みだと思います。
学生時代の 芝崎・田島組(全日本学生大会)
男女ともに最優秀賞獲得
部活引退後から卒業までの間、就職活動・卒業論文などをする中で、田島は体を動かす(人を殴ったり蹴ったりする)事を辞められず、キックボクシングのジムで身体を鍛えていました。卒業後も都内の私立中学校で保健体育教諭を続けながら、プロになりました。彼女は常に強い意志を持ち、自分の道を1人で切り開き、誰に何を言われようとも、一所懸命まっすぐ進んできました。これからも田島にしかできない人生を飽きるまで進んでいくんだと思います。
芝崎・・寄稿ありがとう!
では、では・・卒業後から世界王者までの道のりは 田島本人に・・
部活引退後、卒論や就職活動に勤しむ中、ストレス発散とダイエットを兼ねて、キックボクシングのジムに通い始めました。通ってすぐに、アマチュアの大会があり、女子選手が1名足りないからと、少林寺拳法経験者の私に声がかかりました。その時は軽い気持ちで試合に出たのですが、特に一生懸命練習をしていたわけではない私は、判定で負けてしまいました。この時に、負けたくないという気持ちが強くなり、練習に励むようになりました。アマチュアで10戦ほどしてから、プロのリングに立ちたいと思うようになり、2007年3月31日にプロデビューをしました。
初めて上がるプロのリングは、緊張と不安と興奮が入り混じった場所でした。試合内容に関しては、あまり覚えていませんが、勝ち名乗りを受けた時に、今まで練習してきた事の全てが報われ、開放感と喜びに満ち溢れる感覚は、今でも変わっていません。
そこから、無敗のまま2008年11月9日にJ-Girlsミニフライ級(47.6kg)王者になりました。
2009年7月に、当時16歳の若さで無敗のまま挑戦者トーナメントを駆け上がってきた神村エリカ選手の挑戦を受けました。無敗同士の対決と注目していただいた1戦でしたが、判定2-0と敗れてしまい、12戦目にして初めての黒星を喫しました。
この頃から、膝とアキレス腱の痛みに悩まされるようになり、ケアをしながら、騙し騙し練習をし、試合をするようになりました。ですが、満足のいく練習ができないままリングに上がる事に憤りを感じ、自分の中で最後と決め、-50kgのトーナメントに出場を決意しました。結果、準決勝で敗退してしまい、そのリング上で引退を表明し、2010年12月12日に引退エキシビジョンを行い、リングから降りました。(戦績:17戦15勝2敗3KO)
その後、2011年12月に沖縄に移住し、身体を動かす為にキックボクシングのジムに通い始めました。元々大好きなキックボクシングは、フィットネスとして、ずっと続けようと思っていたからです。そこで出会った仲間達の頑張る姿と、沖縄に女子プロ選手が私の他に1人しかいないという事実に衝撃を受け、沖縄での女子格闘技の普及と、現役当時からの目標でもあったタイ人と世界のベルトをかけて試合をする!!という目標を達成すべく、復帰する事を決めました。
本当にたくさんの方の支えの元、2014年5月18日に復帰戦を行い、判定の末勝利する事ができました。
その後復帰2戦目にしてもらったチャンス、WPMF女子日本ピン級(45.3kg)のタイトルマッチで敗れてしまいますが、その後同年12月20日に階級を上げてWPMF女子日本アトム級(46.2kg)王座を戴冠する事ができました。
そして、2015年5月31日、たくさんの方に支えられ、沖縄コンベンションセンターという大きな舞台で、メインイベントを飾らせてもらいました。(試合自体は最後から2番目)試合前には10日間のタイ合宿に行き、もう練習したくないと思う程に練習をし、あまりの練習のキツさに一人、下宿先で涙を流す日々を送りました。その甲斐もあってか、試合は5RでKO勝ちを収める事ができ、WPMF女子世界ミニフライ級王者になる事ができました。
今までの積み重ねと、周りの支えがあってこそ、今の自分がいると実感しています。この年になってここまで夢中になれる事があり、こんなにもたくさんの人に応援してもらる。こんなに幸せな人生はないと思っています。これからは、たくさんの人に支えていただたい分、少しでも恩返しをしていけるように精進していきたいと思います。
編集後記
前述したように、わが拳法部のOB・OGの皆さんはさまざまな分野で活躍をされております。それぞれの現場で、日体大の道場で培った「気合」と「根性」で踏ん張って日々を送られていると思います。そんな中で、東京から遠く離れた沖縄の地で世界タイトルを勝ち取った同窓がいます。われわれOB会会員にとっても我がことのように嬉しいことです!また明日から俺も(私も)「頑張ろう!」という気持ちにさせてもらいました。田島!おめでとう!そして、ありがとう!
そして、現役も7月上旬に行われるオールジャパンに繋がるオール東京都大会にむけて、日々修練を積み上げております。時代は変わり、学生たちのライフスタイルは様変わりしていても、創部以来50年間変わらない日体大少林寺拳法部の伝統が連綿と受け継がれています。OB会会員の皆さまご安心ください。ご自身が青春の全てを掛けた道場に、是非、顔を出して頂ければと思います。
文責 福家
編集者より
前回のブログでお伝えしましたが、わが少林寺拳法部のOGである41代 田島佳代子が(22代目線です・・)なんと女子キックボクシングの世界王者となりました
卒業生は様々な分野で、日体大少林寺拳法部の看板を背負いながら活躍をしております。その中で、卒業後も少林寺拳法や、そのほかの格闘技を続けているメンバーもいます。そんな中で、41代田島はキックボクシングを初め、ケガで一回引退してから見事復帰し、世界王者まで登り詰めました。
実は、私は彼女が日体大に入学前から知っていました。その当時の勤務校の教え子が、体育進学センターに通っており、そこで同じように日体大を目指す田島を、高校の体育教官室に連れてきました。「格闘技に興味があり、少林寺拳法部に入部したい!」というような話をしたことを覚えています。見事に入学、入部し、後輩となったわけですが、印象としては、「線が細い子」でした。しかし、あとで学生時代を語ってくれる芝崎(旧姓)も言っていますが、芯の強さは感じさせる後輩でありました!卒業して20年、世界王者までの道のりは決して平坦ではなかったと推察します。OB会の代表として言わせてください。「本当によく頑張ったな!おめでとう!」
同期の41代芝崎(旧姓)は、入学前からの親友で、大学時代もルームシェアした仲でもあります。彼女の大学時代の話を織り交ぜながら「世界王者への道!」を特集してみました!・・では
まずは・・田島本人から 日体大少林寺拳法部時代を語ってもらいます
私が少林寺拳法に興味を持ったのは、1冊の本がきっかけでした。
灰谷健次郎さんの『天の瞳』という本です。この主人公の男の子が少林寺拳法をやっていて、人として大きく成長していく様にとても心惹かれました。
中学生の時にこの本を読み、高校は(少林寺拳法に近いと思っていた…)空手部に入部をしようと思っていましたが、父親の反対があり、空手部への入部は断念しました。
そして、日本体育大学に進学し、是が非でも入部したいと思い、女の子は女の子らしく!!という父親には入部後、事後報告をし、何とか納得してもらいました。
体育大学の武道の部活という事もあり、心身共にキツイ事もありましたが、人としてとても大きく成長できた4年間だと思います。4年間仲間と共に部活に励み、最優秀という輝かしい名誉も手にする事ができました。諦めない事の大切さ、やり遂げることの達成感を大学時代に多く学んだと思います。
次に同期であり大親友でもある芝崎(旧姓)にいろいろなエピソードも含めて語ってもらいましょう
田嶋はること田島佳代子との出会いは、体育進学センター(タイシン)という渋谷区代々木にある体育系大学専門予備校の授業でした。当時、日本体育大学の一般入試を間近に控えた私たちは、入試で必要となるバスケットボールやマット運動の練習をしていました。私も田島もバスケットボール経験者ということで仲良くなるのに時間はかかりませんでした。日本人離れした顔立ちに、可愛らしいえくぼが印象的な女子高生でした。入試まで互いに技術を高め合い、学業にも励み、晴れて日体大生となれました。田島は大学から自宅がとても遠く、一人暮らしを希望していましたが、ご両親が大変心配され、大学の寮に住むよう言われていました。しかし田島は自由が効かないとそれを断固拒否。その流れで私とルームシェアをする事になりました。その頃には田島の誘いもあって、二人で少林寺拳法部に入部も決めていましたので、大学の近くにアパートを借り新たな生活をスタートしました。
田島は高校時代から格闘技に憧れていましたので、大学で少林寺拳法を始められることをとても楽しみにしていました。入学前の部活見学の際、先輩方のしなやかでキレのある突きや蹴り、受け身を見て「早く上手くなりたい」と話していました。また入部後は週6日の練習の他に1年生としての仕事と学業もあり、大変な事も多かったのですが、私も田島も突き蹴りの時に聞こえる道着のパン!という音がとても好きで、自宅に帰ってもまた道着を着て鏡の前で練習していたのを思い出します。
田島は在学中、様々な大会に出場し賞を取り続けました。
【一年次】全日本学生大会女子級拳士の部田島・芝崎組最優秀賞
【二年次】関東学生大会女子初段の部田島・竹田組優秀賞
全日本学生大会女子初段の部田島・竹田組最優秀賞
【三年次】関東学生大会女子二段の部田島・芝崎組優秀賞
【四年次】関東学生大会女子三段以上の部田島・芝崎組最優秀賞
全国大会(福井)女子三段以上の部田島・芝崎組敢闘賞
全日本学生大会女子三段以上の部田島・芝崎組最優秀賞
全日本学生大会女子団体の部最優秀賞
田島の武器は、高い身体能力と突き刺さるような蹴りでした。受けた事のある方なら分かると思いますが、彼女の蹴りは決して重くはありません。細い棒で突き刺してくるような後引く痛みがあります。練習中少しでも油断をすると、彼女は急所を一発で仕留めてきます。その動きは今でも変わっていないというか、更に増している気がします。
表彰の際、故 大屋昭夫先生(監督)より最優秀賞を授与される
田島とは一度だけ喧嘩をしたことがあります。それは引退を控えた大会の一週間前でした。1ヶ月間集中練習を重ねてきたにも関わらず、全く息が合わず、間合が上手く取れませんでした。互いにイライラを抑えているのは分かっていましたが、4年間でこんな状況に陥ったのは初めてで二人とも暗中模索していました。先に匙を投げたのは田島でした。「もう練習辞めよ。これ以上やっても優勝なんて無理だよ。」初めて田島の怒った顔を見ました。「なんでそんな事を言うの!そんな気持ちならもういい!大会出るのも辞めよ!」私もムカついて反論し、練習場を飛び出し帰りました。もちろん二人が帰宅する家は一つですから、まっすぐ家に帰れるわけもなく、私は帰路の途中の道で、田島は部室(ぶしつ)で泣きました。たぶんお互いに悔しくて泣いたんだと思います。優勝や出場を本気で諦めたわけではなく、どうして良いのか分からなくてこのようになりました。絶対リベンジしたい相手がいて、みんなの期待に応えたくて、でも練習が上手くいかなくて…歯痒くて…泣きました。その日は互いに同輩に助けられ、別々なところに泊まり、一晩気持ちを整理しました。次の日の朝、自宅で再開しました。「絶対勝とうね!」と抱き合った事は今でも忘れません。その日の練習から、間も息もピタッ!と合いました。引退試合の得点は断トツTOPでの最優秀賞だったと審判の方に教えて頂きました。「勝ちに拘る執念」は、田島のもう一つの強みだと思います。
学生時代の 芝崎・田島組(全日本学生大会)
男女ともに最優秀賞獲得
部活引退後から卒業までの間、就職活動・卒業論文などをする中で、田島は体を動かす(人を殴ったり蹴ったりする)事を辞められず、キックボクシングのジムで身体を鍛えていました。卒業後も都内の私立中学校で保健体育教諭を続けながら、プロになりました。彼女は常に強い意志を持ち、自分の道を1人で切り開き、誰に何を言われようとも、一所懸命まっすぐ進んできました。これからも田島にしかできない人生を飽きるまで進んでいくんだと思います。
芝崎・・寄稿ありがとう!
では、では・・卒業後から世界王者までの道のりは 田島本人に・・
部活引退後、卒論や就職活動に勤しむ中、ストレス発散とダイエットを兼ねて、キックボクシングのジムに通い始めました。通ってすぐに、アマチュアの大会があり、女子選手が1名足りないからと、少林寺拳法経験者の私に声がかかりました。その時は軽い気持ちで試合に出たのですが、特に一生懸命練習をしていたわけではない私は、判定で負けてしまいました。この時に、負けたくないという気持ちが強くなり、練習に励むようになりました。アマチュアで10戦ほどしてから、プロのリングに立ちたいと思うようになり、2007年3月31日にプロデビューをしました。
初めて上がるプロのリングは、緊張と不安と興奮が入り混じった場所でした。試合内容に関しては、あまり覚えていませんが、勝ち名乗りを受けた時に、今まで練習してきた事の全てが報われ、開放感と喜びに満ち溢れる感覚は、今でも変わっていません。
そこから、無敗のまま2008年11月9日にJ-Girlsミニフライ級(47.6kg)王者になりました。
2009年7月に、当時16歳の若さで無敗のまま挑戦者トーナメントを駆け上がってきた神村エリカ選手の挑戦を受けました。無敗同士の対決と注目していただいた1戦でしたが、判定2-0と敗れてしまい、12戦目にして初めての黒星を喫しました。
この頃から、膝とアキレス腱の痛みに悩まされるようになり、ケアをしながら、騙し騙し練習をし、試合をするようになりました。ですが、満足のいく練習ができないままリングに上がる事に憤りを感じ、自分の中で最後と決め、-50kgのトーナメントに出場を決意しました。結果、準決勝で敗退してしまい、そのリング上で引退を表明し、2010年12月12日に引退エキシビジョンを行い、リングから降りました。(戦績:17戦15勝2敗3KO)
その後、2011年12月に沖縄に移住し、身体を動かす為にキックボクシングのジムに通い始めました。元々大好きなキックボクシングは、フィットネスとして、ずっと続けようと思っていたからです。そこで出会った仲間達の頑張る姿と、沖縄に女子プロ選手が私の他に1人しかいないという事実に衝撃を受け、沖縄での女子格闘技の普及と、現役当時からの目標でもあったタイ人と世界のベルトをかけて試合をする!!という目標を達成すべく、復帰する事を決めました。
本当にたくさんの方の支えの元、2014年5月18日に復帰戦を行い、判定の末勝利する事ができました。
その後復帰2戦目にしてもらったチャンス、WPMF女子日本ピン級(45.3kg)のタイトルマッチで敗れてしまいますが、その後同年12月20日に階級を上げてWPMF女子日本アトム級(46.2kg)王座を戴冠する事ができました。
そして、2015年5月31日、たくさんの方に支えられ、沖縄コンベンションセンターという大きな舞台で、メインイベントを飾らせてもらいました。(試合自体は最後から2番目)試合前には10日間のタイ合宿に行き、もう練習したくないと思う程に練習をし、あまりの練習のキツさに一人、下宿先で涙を流す日々を送りました。その甲斐もあってか、試合は5RでKO勝ちを収める事ができ、WPMF女子世界ミニフライ級王者になる事ができました。
今までの積み重ねと、周りの支えがあってこそ、今の自分がいると実感しています。この年になってここまで夢中になれる事があり、こんなにもたくさんの人に応援してもらる。こんなに幸せな人生はないと思っています。これからは、たくさんの人に支えていただたい分、少しでも恩返しをしていけるように精進していきたいと思います。
編集後記
前述したように、わが拳法部のOB・OGの皆さんはさまざまな分野で活躍をされております。それぞれの現場で、日体大の道場で培った「気合」と「根性」で踏ん張って日々を送られていると思います。そんな中で、東京から遠く離れた沖縄の地で世界タイトルを勝ち取った同窓がいます。われわれOB会会員にとっても我がことのように嬉しいことです!また明日から俺も(私も)「頑張ろう!」という気持ちにさせてもらいました。田島!おめでとう!そして、ありがとう!
そして、現役も7月上旬に行われるオールジャパンに繋がるオール東京都大会にむけて、日々修練を積み上げております。時代は変わり、学生たちのライフスタイルは様変わりしていても、創部以来50年間変わらない日体大少林寺拳法部の伝統が連綿と受け継がれています。OB会会員の皆さまご安心ください。ご自身が青春の全てを掛けた道場に、是非、顔を出して頂ければと思います。
文責 福家